東京高等裁判所 昭和57年(ネ)1892号 判決
控訴人
古寺清
右訴訟代理人
高田利広
小海正勝
被控訴人
追川智昭
被控訴人
追川和男
右両名法定代理人親権者母
兼被控訴人
追川佳子
被控訴人
追川友治
被控訴人
追川リサ子
被控訴人
細川藤柗
被控訴人
細川キミ
以上七名訴訟代理人
久保田敏夫
浅田輝彦
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は、控訴人の負担とする。
事実
一 控訴人は、「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人らは、主文第一項同旨の判決を求めた。
二 当事者双方の主張及び証拠の関係は、次のとおり付加するほかは原判決の事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。
(一) 控訴人
1 追川一二が昭和五一年四月に入つてから控訴人の診療を受け帰宅後の自宅における状態及び本件事故当日のネブライザー実施後の咳嗽が原審認定のとおりであつたとしても、それは、あくまで急性咽頭喉頭炎の症状であつて、ストマイ過敏症ないしこれを疑わしめる強い症状ではなく、現にこの症状に対してストマイネブライザーを屡次にわたり実施し何らの異常なく経過していたのであるから、控訴人が本件注射前に一二のストマイ過敏症ないしこれを疑う強い症状を診断(予見)することは、臨床上至難のことであつて、控訴人が一二の前記症状をストマイ過敏症状ないしこれを疑う強い症状と診断(予見)することなく急性咽頭喉頭炎の症状と診断したことは、臨床医として当然なことであり、何ら過失とする謂れはない。
2 控訴人は、本件事故当日ネブライザー実施後の一二を視診すると共に「どうだい、具合は。」と発問し、一二から「何かさつぱり今度は良くならない。」との答を得た問診のうちに、一二の全身状態及び薬物反応の異常のないことを診断(予見)し、そのうえで、咳嗽を急性咽頭喉頭炎に起因するものと判断しているのであつて、この判断を軽率な即断とする謂れはない。
3 当審における控訴人本人尋問の結果を援用
(二) 被控訴人ら
1 一二のネブライザー実施直後の激しい咳嗽や自宅における不快症状、目のかゆみ等は、明らかに典型的なストマイ過敏症状であつて、これを急性咽頭喉頭炎のそれであると控訴人が強弁することは説得的ではなく、かえつて控訴人がストマイ注射前に医師がとるべき安全確認のための有効な処置を何一つとして執らなかつたという理解に帰着する結果ともなる。
2 「どうだい、具合は。」というような概括的な問いかけは、何ら安全確認のために必要な問診にあたらない。
理由
一当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原判決が認容した限度で理由があり、その限度でこれを認容すべきものと判断する。そして、その理由は、次のとおり訂正し、削除し及び付加するほかは原判決の理由説示と同一であるから、これをここに引用する。
1 原判決一六丁裏二行目の「被告(第一、二回)」を「原審(第一、二回)及び当審における控訴人」と、同一九丁裏二行目の「被告本人尋問(第一回)」を「原審(第一回)及び当審における控訴人本人尋問」と、同三二丁裏五行目の「被告本人尋問(第一、二回)」を「原審(第一、二回)及び当審における控訴人本人尋問」とそれぞれ改め、同三〇丁裏八行目(三)(1)の冒頭に「当審における控訴人本人尋問の結果及び」を加える。
2 控訴人は、昭和五一年四月の一二の自宅における状態及び本件事故当日のネブライザー実施後の咳嗽は、急性咽頭喉頭炎の症状であつて、これをストマイ過敏症ないしこれを疑う強い症状と診断することは臨床上至難のことであり、控訴人は、屡次にわたる予備検査代用のネブライザー実施による異常のなさと「どうだい、具合は。」、「何かさつぱり今度は良くならない。」との問診のうちに、一二の全身状態及び薬物反応の異常のないことを診断し、前示咳嗽を急性咽頭喉頭炎に起因するものと判断したのであつて、何ら過失はないと主張するので検討する。
(1) 本件全証拠によるも、前記認定の、昭和五一年四月に入つてから一二が控訴人の診療を受けて帰宅後の自宅における状態(不快感、倦怠感、激しい咳嗽、目のかゆみ等)及び本件事故当日のネブライザー実施直後の激しい咳込みが、急性咽頭喉頭炎に起因するものであつたと断定することはできない。むしろ、これが、アレルギー体質である一二にあつては、ストマイのアレルギー反応による症状である疑いが強いと考えられることは、前記のとおりである。ただ、それがストマイのアレルギー反応であるか急性咽頭喉頭炎の病状であるかの診断を直ちにすることは、臨床医としては困難であろうし、右自宅における一二の状態は控訴人に申告されていないため控訴人は知らなかつたのであるが、控訴人は、一二がアレルギー体質であることをみずから診断し、まさにこれを原因とする疾病の治療にも当たつていたのであるから、ストマイ注射を一二に初めてするにあたつては、ストマイのアレルギー反応(それが稀なものであるにせよ)に思いを致し、一二に対し適切な問診をなし、的確な情報を得て、若干の時間をかけ、検討のうえ実施すべきものであつたというべきであり、その余裕がないほど本件注射が緊急であつたとは認められない。もしそうしていたとすれば、控訴人は、昭和五一年四月に入つてからの一二の自宅における前記症状(そのほかにもストマイに対する過敏性症状がなかつたとはいえない。)の発現をも知り得、これを事故当日のネブライザー後の咳嗽とあわせ考えれば、一二は屡次にわたるストマイのネブライザー実施により感作され、ストマイのアレルギー反応を起しているのかもしれないとの判断に到達しえたものといえる。しかるに控訴人は、一二に対し「どうだい、具合は。」と漠然と問いかけた程度だつたので、一二は「何かさつぱり今度は良くならない。」と答えたに止まつたのであり、ストマイに対する過敏性を示す諸徴表の有無につき情報が得られなかつたといえる。
(2) ところで控訴人は、本件事故当日までの屡次にわたるストマイのネブライザー実施がストマイに対する過敏症の有無を検査する予備検査以上の検査方法であり、その実施中に何らの異常はなかつたと主張し、これに副う原審、当審における控訴人の供述部分がある。しかし、毎回のストマイのネブライザー実施後、控訴人が一二に異常が生じたかどうかを特に観察した形跡は認められないし、昭和五一年四月に入つてのネブライザー実施後における一二の状態には前年と異なる点が見られること及び注射の場合はネブライザーよりショックを起こす可能性が大きいことが前記のとおりである以上、ネブライザー実施のみで一二に異常のないことを確認したものとはいまだ認め難い。松倉鑑定及び長沢鑑定中右認定に反する部分は、当裁判所の認定と異なる事実に立つての判断と認められるので、採用できない。
(3) 厳しい健康保険制度のもとで、多数の患者を短時間のうちに診療しなければならず、特に定型的な治療を反復継続することの多い耳鼻咽喉科開業医にとつて、前記のような問診、観察、検討の有無を過失認定の基礎とすることは、難きを強いるもので、「どうだい、具合は。」との発問でも、一応通院治療中の患者に対し、前回の治療後における疾病の変化や投薬治療の効果及びその適否を判断するための資料を申告させ獲得するための発問であると考えられないこともない。しかしながら、患者から自発的に情報の申告がなされることが望ましいとしても、元来患者としては何が問題か(本件では、ストマイによるアレルギー反応の有無)が判らないのであり、事柄の重大性によつては、専門家である医師として、当面する問題についての情報を要領よく引き出すべきであるし、多忙の中でもそれは可能であるといえる。そして以上認定のところは、本件当時の耳鼻咽喉科開業医の水準を越えるものとはいえない。
(4) 以上要するに、控訴人に対しては本件ストマイ注射前になお一層慎重な問診が期待されたのに、控訴人は、ストマイの副作用につき、聴覚に対するそれはともかく、アレルギー反応については慢然と考えていたため、これを怠つた過失があるといわなければならない。
二してみると、右と同旨の原判決は相当であつて、本件控訴は、理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担について民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(小堀勇 吉野衛 山﨑健二)